2014年06月29日

何とか講演会も終了したので、次は沖縄だべ!

 罵声を浴びることも、生卵ぶつけられるようなことはありませんで、無事に終了致しました。主催者の方のお話を伺う限り、なかなかに好評だったようで、こちらとしてはひとまず安心です。

 参加者の方も多様で、年齢幅も広かったこともあり、私個人としても非常に有意義な時間になりました。ありがとうございました。今の様子ですと、また別の機会で実施されることもあるようですので、ご希望の方は是非どうぞ。

 それにしても、慣れないことをすると勉強になりますが、同時に心労も重なります。七月上旬は、夏季勉強合宿という「名目」の「現実逃避旅行」に皆で行きますので、そちらで体力回復と参りましょうか。スキューバダイビング・無人島訪問、沖縄本島一周、何もせずにホテルで雑魚寝等々、既に大量の予定が方々で出ているようですが、怪我せず無事に帰ってきて、七月末のセンター模試に備えるとしましょう!!!
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2014年06月16日

オヤジに声援を!

 講演会も近くなり、そのネタ絡みで、というわけでもないのですが、ちょっと気になる記事が。

「警察相談でも解消されなかった父親の悩み…暴れる息子をこの手で殺害」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140615-00000522-san-soci&pos=3

 要は、「家庭内暴力のエスカレートする子どもに対して、親がとどめを刺した」という、引きこもり業界的にはありがちな話題です。

 殺害はテーマとして重いのでニュースになりますが、殺害しないにしても、暴力云々は引きこもり界隈ではそんなに珍しい話でもありませんので、飛び上がった氷山が視覚化されただけのことでしょう。具体的解決策も特に無いので、今後も段階的に増えていきますし、重傷や意識不明の程度なら、もう少し多くなると思います。

 家庭内暴力の原因はいくつかあるのですが、はっきりとした精神疾患でないものの場合、大体は父親の側での「躾失敗」に原因があるように見えます。所謂「物分かりの良い父親」とか「子どもに理解のある父親」といった一群が中核で、共通事項としては「子どもを殴ったことがない」が比較的多いように見えます。

 多分、この段階でガンダムの有名なシーンが浮かぶ人もいらっしゃると思いますので、ついでに掲載しておきます。

ブライト「アムロ貴様なぜ自分の任務を果たそうとしないんだ。」
アムロ「ブライトさんはなんで戦っているんです?」
ブライト「今は、そんな哲学など語っている暇はない。立てよ、おい。」
アムロ「やめてくださいよ。そんなにガンダムを動かしたいんならあなた自身がやればいいんですよ。」
ブライト「出来ればやっている。貴様に言われるまでもなくな。」
アムロ「僕だって出来るからやっているんじゃないんですよ。」
バシッ(ブライトがアムロを殴る)
アムロ「ウッ、殴ったね。」
フラウ「ブライト少尉」
ブライト「殴ってなぜ悪いか。貴様はいい、そうやって喚いていれば気分も晴れるんだからな。」
アムロ「僕がそんなに安っぽい人間ですか。」
バシッ(ブライトがアムロを殴る)
アムロ「2度もぶった。親父にもぶたれたことないのに。」
ブライト「それが甘ったれなんだ。殴られもせずに1人前になった奴がどこにいるものか。」

とまあ、こういった展開が家庭の中にない場合、特に子供が小中学生位のときに父親が躾をサボった場合、子供のタガが外れ、まともに自己コントロール出来ず、自分の自己都合ばかり押し付ける、社会性に乏しい成長の遅い子供が発生しやすくなるようです。父親の義務放棄が原因で、子供の精神的成長が阻害される典型的な事例の一つでしょうか。

 幸い、アムロ・レイはエースパイロットとして責任を全うしていましたが、そのまま責任回避を続けると、30過ぎたあたりで打つ手もなくなってきます。

 中には、

「私は厳しく言い聞かせてますよ」

というお話もありますが、長年見ている限り、言葉云々よりも「引っ叩いたかどうか、拳骨を食らわせたか否か」の方が、要点として大きいような気がします。

 国家運営を見れば分かりますが、財政と外交に並び、軍事・治安維持という暴力的要素は、組織の運営には必須です。こんな話をすると、「お前は暴力を肯定するのか!」といった幼稚な人が出てくるので控えたいところではありますが、子供の持つ野生的暴力性を一定値のラインで抑えるには、言論はほとんど価値を持ちません。野生的行動に対して「言って聞かせる」なんて選択肢は、そもそも最初から存在しないのです。

 敵軍が攻めてきて銃口を突きつけられているにもかかわらず、

「話し合おうよ。話せば分かり合えるはずだよ」

なんて寝ぼけた話が通用するはずもありません。父親の義務とは、子供の持つ自然的な暴力性を、最小限の暴力で抑えることではないでしょうか。

 そして、この義務とは、子供が幼いときにしかチャンスがありません。基本的には小中学生位、せいぜいいって高校生位が限度でしょう。20歳も越えると、父親が体力的に不利になってきますから、それ以降は非常にシンドイ作業になります。最悪、歯止めのきかない子供を殺害するという選択肢も出てくるでしょう。

 それでも、社会に迷惑をかける前にとどめを刺しているなら、ある意味父親としての義務は全うしていると言えます。最悪なのは、躾の完成していない未熟で幼稚な危険人物を野に放つことであり、それが原因で他の殺人が発生すれば、これこそ親として最大の責任放棄です。

 無論、親だからといって全てをコントロール出来る訳ではありませんし、寧ろ出来ないことの方が多いはずです。しかし、「社会の中でやってはいけないライン」を満たしているかどうかは、まともな人間なら少し見れば分かります。基準値未満の子供に悲観し、殺害を選択したとしても、決して父親を批判出来ません。寧ろ、「情状酌量の余地あり」という流れが出てきても悪くないと思います。そういう意味では、この事例は決して最悪ではないでしょう。最悪一歩手前です。

 ここから先は推察ですが、今回の件も、早期の段階で「道理にかなった教育的反撃」を十分にしなかったことに原因があると思います。基本的に、子供は馬鹿ではありませんので、道理にかなった親の行動については従うのが普通です。自分が悪ければ、多少文句は言いながらも「すみません」となりますし、表面的には反省していそうになくても、腹の底でも何らかの軌道修正をかけているものです。今回の件は、一連の教育的反撃が最初から欠如していたものと考えていますが、残念な点があるとすれば、要はここでしょう。

 理不尽な暴力なら私も肯定しませんが、最低限の躾が伴っていない、社会性の乏しい「蛮族」を抑えるための暴力は、寧ろ積極的に肯定すべきでしょう。私達は、一定の秩序を持った「社会」の中で生きているのですから、「蛮族」は積極的に排除されるのが自然な流れです。

 それでも、10代までなら、「蛮族」でも良いと思います。やんちゃは子供の特権ですし、牙を完全にもいでしまえば、人間性そのものを失います。「蛮族」は親からの躾でもって、段階的に文明人になれば良い。しかし、30近くもなって「蛮族」を続けるのは、ただの無能と怠惰の集積であり、親の躾の失敗としか見なされません。叩かれるのが自然であり、肯定など論外です。

 社会の中で生きる上で、最低限の人間的「手入れ」を施し、最低限社会に適合出来るような存在に仕上げること。父親の役割とは、非常に重く、大切で、そして何よりも尊敬すべきものだと思います。今回の件は非常に残念な結果かも知れませんが、最悪の事態ではありませんし、未来に発生したであろう事件を未然に防いだ可能性すらあります。

 世の中のお父さん達は、毎日大変な仕事に追われながら、子供の理不尽と向き合い、日々戦っているのだと思います。たまには、

「お父さん臭いから近寄んないで」

とか

「あんなハゲオヤジ、生きてて何が楽しいんだよ」

とか言わずに、

「オヤジも大変なんだな。ありがとよ」

位言えるようになりたいものですね。一人前の人間とは、親を肯定出来るようになってからがスタートだと思います。

参照:「おやじと話す」
http://www.youtube.com/watch?v=SmfVzW-yL3g
http://j-lyric.net/artist/a00bea3/l014ce3.html
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2014年06月11日

「逃げる」雑考

 六月になってしまいました。「逃げる」という姿勢が最も鮮明となる月です。

 どこでもそうなのかも知れませんが、CARPE・FIDEMでも、六月は例年色々と酷いものです。出席率の低下は著しいですし、何となく慣れてきてしまっているので、やる気も低下。結果、トラブルも多くなります。

 トラブルの大半が、何らかの「逃避」、即ち「逃げ」に関与しています。人間関係で躓いて逃げたり、勉強がしんどくなって逃げたりと、まあ何でもアリです。

 丁度「逃げ」については、電話対応や例年のよくある相談等で話題となっておりますので、後続のために残しておこうと思います。

 長年見ていて思うことですが、周囲に問題があって逃げるのは決して悪くないものの、自分自身に問題があって逃げる人は、結局その後も何ら成長せずに終わるようで。

 例えば、悪質なクラスメイトしかいない中学校を考えてみて下さい。いじめを受けて引きこもった子がさっさと転校するのは一つの「逃げ」ですが、これは前者です。何ら問題はありませんし、寧ろ適切な判断というものです。

 一方、自分が原因で人間関係が悪化したり、サボりが原因で勉強が詰まったりといった場合にはどうでしょうか? この場合には、逃げてもどうにもなりません。逃げれば逃げただけ状況は悪化しますし、成長も停止します。悪化した関係の修復は誠実に行うと同時に、自分のおかしい部分を修正するしか手はないでしょう。サボった分の勉強も、その後の努力で取り戻す位しか選択肢はありません。つまり、攻めるしか手はないのです。

 しかし、それでも逃げたくなるのが人間というもの。ただ、逃げ方にもスタイルというものがございまして。

 例えば、

「オレは今、猛烈に逃げている! 逃げているんだ!!!」

のように、熱血的な逃げ方をする人もいれば、

「勉強と人間関係の全てを失うよりは、片方を切り捨ててもう一つに注力しよう」

といった理知的な逃げ方をする人もいます。(因みに、私は前者です。)

 で、どちらが良いのか、という話でもないのですが、ここで若干の問題が発生します。前者は「逃げている自分」に気付いているので、バカっぽいですがトラブルは少なめです。一方、後者の人の場合、表面的な穏当さとは裏腹に、なかなかに厄介な問題が潜んでいる場合があります。

 一見すると、理知的な逃げは間違っていなさそうに見えますが、この種の逃げを行う人は、自分の本質的な間違い箇所を訂正しない傾向にあるように見えます。理性的判断で処理しているように見えるため、合理的な気もするのですが、この合理性の少なからぬ量が、自分への言い訳として使われているためです。つまり、

「自分は逃げてなどいない。『合理的方向転換』をしただけなのだ」

と。

 無論「配点80点の国語を捨て、120点の数学に全力投入する」程度の話なら、何も問題はありません。しかし、「人間関係と勉強」等、そのどちらも捨てることの出来ない問題だとするなら、話は全く別です。特に、CARPE・FIDEMは不登校や引きこもり経験者のための環境であり、練習も兼ねて比較的人間関係はヌルいのが通例ですが、ここでの「人間関係的失敗」とは、そのもの「大学や社会でも失敗」と同値です。大学なり社会なりの方が環境的には圧倒的に厳しいのですから、当たり前の話です。

 となると、逃げるという選択肢は最初から無い訳で、そこは強行する以外に手はないのです。

「苦しい環境でも我慢しろっていうのか! いつまで我慢すればいいんだ!!」

的な意見もありますが、それは全く違います。我慢なんてものは、所詮一時凌ぎにしかなりません。大切なのは、

「苦しい環境でも、意図的にそこに身を置き、どうすれば楽になるのか自分自身で考え続けること」

です。苦しい局面なんてものは、生きていれば何回でも発生します。その度に逃げていたのでは、結局は何の成長もありません。当然のことです。

 ただ、苦しい局面に身を置いて「楽になるための工夫」を続けていると、ちょっとしたきっかけで本当に楽になることがあります。「苦しい局面をどのように凌いできたか」という歴史は、詰まるところこの工夫の集積であり、その人の持つ人間的な強さもまた、この工夫の集積に他なりません。耐える力のある人が人間的に強いのではなく、楽になる工夫の上手い人が人間的に強いのです。同時に、この工夫を身につけた主体とは、必然的に尊敬の対象となります。

 年齢の割に幼い人や、判断能力の乏しい人は、この点にくれぐれも注意しましょう。あなたが尊敬されないのは、単にこの工夫の集積をサボってきたからです。

「精神的に弱くて……」

とか、

「気持ちが落ち着かなくて……」

といった主張はもっともですが、周囲からの評価は駄々下がりになります。「凌いだ歴史が私には不足しています」と高らかに宣言しているようなものですから。

 かくして、最低限まともなレベルに持ち込む気があるなら、最初から「逃げる」というコマンドが存在しない状況もあることを知っておきましょう。「とりあえず逃げない」という選択肢が、実は最良の判断であるケースは、意外と多いと思います。

 同時に、自分の「合理的判断」が、実は逃げるためのカモフラージュに過ぎない場合もあります。冷静な自分など、最初からそもそも胡散臭いものです。どのような判断をするにせよ、とりあえず「逃げてないか?」と疑ってみるのも、あながち悪いものでもありません。人間の成長の可能性は、意外と些細な部分にあるような気がします。
posted by Ecodog at 00:46| Comment(2) | 徒然なコメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする