2014年06月11日

「逃げる」雑考

 六月になってしまいました。「逃げる」という姿勢が最も鮮明となる月です。

 どこでもそうなのかも知れませんが、CARPE・FIDEMでも、六月は例年色々と酷いものです。出席率の低下は著しいですし、何となく慣れてきてしまっているので、やる気も低下。結果、トラブルも多くなります。

 トラブルの大半が、何らかの「逃避」、即ち「逃げ」に関与しています。人間関係で躓いて逃げたり、勉強がしんどくなって逃げたりと、まあ何でもアリです。

 丁度「逃げ」については、電話対応や例年のよくある相談等で話題となっておりますので、後続のために残しておこうと思います。

 長年見ていて思うことですが、周囲に問題があって逃げるのは決して悪くないものの、自分自身に問題があって逃げる人は、結局その後も何ら成長せずに終わるようで。

 例えば、悪質なクラスメイトしかいない中学校を考えてみて下さい。いじめを受けて引きこもった子がさっさと転校するのは一つの「逃げ」ですが、これは前者です。何ら問題はありませんし、寧ろ適切な判断というものです。

 一方、自分が原因で人間関係が悪化したり、サボりが原因で勉強が詰まったりといった場合にはどうでしょうか? この場合には、逃げてもどうにもなりません。逃げれば逃げただけ状況は悪化しますし、成長も停止します。悪化した関係の修復は誠実に行うと同時に、自分のおかしい部分を修正するしか手はないでしょう。サボった分の勉強も、その後の努力で取り戻す位しか選択肢はありません。つまり、攻めるしか手はないのです。

 しかし、それでも逃げたくなるのが人間というもの。ただ、逃げ方にもスタイルというものがございまして。

 例えば、

「オレは今、猛烈に逃げている! 逃げているんだ!!!」

のように、熱血的な逃げ方をする人もいれば、

「勉強と人間関係の全てを失うよりは、片方を切り捨ててもう一つに注力しよう」

といった理知的な逃げ方をする人もいます。(因みに、私は前者です。)

 で、どちらが良いのか、という話でもないのですが、ここで若干の問題が発生します。前者は「逃げている自分」に気付いているので、バカっぽいですがトラブルは少なめです。一方、後者の人の場合、表面的な穏当さとは裏腹に、なかなかに厄介な問題が潜んでいる場合があります。

 一見すると、理知的な逃げは間違っていなさそうに見えますが、この種の逃げを行う人は、自分の本質的な間違い箇所を訂正しない傾向にあるように見えます。理性的判断で処理しているように見えるため、合理的な気もするのですが、この合理性の少なからぬ量が、自分への言い訳として使われているためです。つまり、

「自分は逃げてなどいない。『合理的方向転換』をしただけなのだ」

と。

 無論「配点80点の国語を捨て、120点の数学に全力投入する」程度の話なら、何も問題はありません。しかし、「人間関係と勉強」等、そのどちらも捨てることの出来ない問題だとするなら、話は全く別です。特に、CARPE・FIDEMは不登校や引きこもり経験者のための環境であり、練習も兼ねて比較的人間関係はヌルいのが通例ですが、ここでの「人間関係的失敗」とは、そのもの「大学や社会でも失敗」と同値です。大学なり社会なりの方が環境的には圧倒的に厳しいのですから、当たり前の話です。

 となると、逃げるという選択肢は最初から無い訳で、そこは強行する以外に手はないのです。

「苦しい環境でも我慢しろっていうのか! いつまで我慢すればいいんだ!!」

的な意見もありますが、それは全く違います。我慢なんてものは、所詮一時凌ぎにしかなりません。大切なのは、

「苦しい環境でも、意図的にそこに身を置き、どうすれば楽になるのか自分自身で考え続けること」

です。苦しい局面なんてものは、生きていれば何回でも発生します。その度に逃げていたのでは、結局は何の成長もありません。当然のことです。

 ただ、苦しい局面に身を置いて「楽になるための工夫」を続けていると、ちょっとしたきっかけで本当に楽になることがあります。「苦しい局面をどのように凌いできたか」という歴史は、詰まるところこの工夫の集積であり、その人の持つ人間的な強さもまた、この工夫の集積に他なりません。耐える力のある人が人間的に強いのではなく、楽になる工夫の上手い人が人間的に強いのです。同時に、この工夫を身につけた主体とは、必然的に尊敬の対象となります。

 年齢の割に幼い人や、判断能力の乏しい人は、この点にくれぐれも注意しましょう。あなたが尊敬されないのは、単にこの工夫の集積をサボってきたからです。

「精神的に弱くて……」

とか、

「気持ちが落ち着かなくて……」

といった主張はもっともですが、周囲からの評価は駄々下がりになります。「凌いだ歴史が私には不足しています」と高らかに宣言しているようなものですから。

 かくして、最低限まともなレベルに持ち込む気があるなら、最初から「逃げる」というコマンドが存在しない状況もあることを知っておきましょう。「とりあえず逃げない」という選択肢が、実は最良の判断であるケースは、意外と多いと思います。

 同時に、自分の「合理的判断」が、実は逃げるためのカモフラージュに過ぎない場合もあります。冷静な自分など、最初からそもそも胡散臭いものです。どのような判断をするにせよ、とりあえず「逃げてないか?」と疑ってみるのも、あながち悪いものでもありません。人間の成長の可能性は、意外と些細な部分にあるような気がします。
posted by Ecodog at 00:46| Comment(2) | 徒然なコメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この話の内容がとてもよくわかります。
でも実際、どちらかが悪いとはっきり分けられる場面は少ないのではないですか?
私は後者のやり方を何度もしてきてしまいました。今度こそ逃げる理由に使わないようにしたいです。
Posted by たまごかけごはん at 2014年07月22日 20:28
>たまごかけごはんさん

 はじめまして。CARPE・FIDEM代表の大村です。返信が壮絶に遅れまして(以下略)。

>でも実際、どちらかが悪いとはっきり分けられる場面は少ないのではないですか?

 分からんですね。仰る通りです。正直なところ、自分がどちらの立場にいるのかきちんと認識しているなら、それだけで十分な気がします。

 逃げてるにもかかわらず、

「自分は主体的に考えて云々……」

なんて主張が許されるのはせいぜい10代までで、20代からは、

「逃げるのが普通。で、どうするか?」

が求められると思います。

 自身の立ち位置を甘く見積もるでもなく、辛く見積もるでもなく、極力実状に沿ったレベルに落とし込めれば、何も問題はないと思います。逃げが悪いわけではなく、逃げてる自分を意識せずに誤魔化すことが悪いのでしょう。

 と、日々逃げまくっている私が言うわけでございます(笑)。
Posted by 大村悠輝 at 2014年08月02日 10:09
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