2012年06月27日

「特別なことをしたから」ではなく「普通のことを続けたから」

 「不登校・引きこもり=絶望的」のような話がある中で、ここは寧ろ希望の多いところかと思います。実際、紆余曲折はありながらも大きく成長して出て行くのが普通ですし、それが珍しいことでもありません。進学先も将来性があり、まともに続けていて人生が詰まるようなルートを取る人は事実上皆無です。

 これまで勉強をしてこなかった子でも、かなり綿密に手堅く勉強しますので、一定の期間で上位層の学力が確保出来ますし、そのために必要なのも最低限の「時間」「資金」「努力」だけです。

 と、こんな話をするためか、

「何か特別なことをしているのですか?」

のようなことを度々聴かれますし、引きこもりが過ぎて性格のねじ曲がってしまった人達からは、

「何か胡散臭いことをしているに違いない。絶対に詐欺だ」

のように陰口を叩かれたこともあります。

 しかし、実際に行っているのは特別なことでも胡散臭いことでも何でも無く、「普通の学生が普通に勉強しているようなこと」を、「平均的能力があれば誰でも出来るように」「要点だけまとめて」「可能な限り完結的に最短ルートで」勉強している程度のことです。速度が速いこと以外は何ら特性もなく、寧ろ「普通」過ぎて退屈な位です。


 社会経験の欠損している引きこもり当事者に多いことですが、彼らは兎に角「特別」や「特殊」を欲しています。今の自分の状況を劇的に改善出来る、魔法のような方法。同期から大きく出遅れ、使い物にならない落ちこぼれとなってしまった自分が一発逆転出来るような素晴らしい方法。彼らの所望はそこにあります。

 しかし、現実にはそんなうまい話などどこにも存在しません。あるのは、毎日を誠実に積み重ねてきた人達の、貯金のような成果があるだけ。キリギリスがアリの成果をかすめ取ろうとすれば、途方もない反発を食らうでしょう。ろくに働きもしなかった無産者が急に金持ちになれるなど、そもそもあり得ないことです。

 彼らが「特殊」な方法で「特別」な成果を欲するのは、最早努力では追いつけない程に同期と差が開いてしまったからです。

「今から追いつかせるなんて、まともな方法じゃ無理だ! 特別な何かが必要だ!」

そんな焦燥が、彼らを「特別」や「特殊」へと駆り立てます。株やFXに逃避する引きこもり当事者の話は何度も書いていますが、彼らも「特別」や「特殊」を求めて安易に走った浅はかな一群と言えます。他にも、ネット上に転がっている良く分からない儲け話に親の金を投げ込んだような話もありましたが、これも同じことでしょう。

 一度不登校や引きこもりになっても、それなりの生活が出来るようになった人達は、「特別」なことや「特殊」なことをしたから、今の生活を手に出来たのではありません。「普通」の積み重ねを「継続」したから、今の生活に繋げられたのです。当たり前の取り分を手にしているだけのことです。

 逆に、一度不登校や引きこもりになって、その後も長期化する人達は、「特別」なことや「特殊」なことをしなかったから、今の生活に落ちぶれているのではありません。「普通」の積み重ねを「継続」しなかったから、今の生活をせざる得なくなったのです。当たり前の現実を思い知らされているだけのことです。


 話は色々とありますが、引きこもりとは、詰まる所「社会の中でほとんど役に立たない人達」のことです。十分に有能で必要とされながら、絶望的な状況で引きこもることを選ぶ人がいたとしたら、それはよほどの変人です。「てめえなんかいらねえよ」「使えねえ奴だな。消えろよ」のように言われ続けてきたり、熾烈な就労環境しか残されていないからこそ、「引きこもる」という袋小路のような選択肢を取らざる得ないわけで、全体的に見たら、この定義から外れている人はほとんどいません。実際に見てみれば分かりますが、圧倒的多数の引きこもりが、時代の変化に対応出来なかった「単なる役立たず」です。

 大人の社会からすれば、子供は全員が「役立たず」です。しかし、成長と共に、「役立つ存在」へと進化して行きます。普通の人はこのようなルートを取りますが、高齢化した引きこもりとは、この「役立たずな子供」の性質をいつまでも引きずっている存在です。全体的なり部分的なりで、成長に遅れがある存在です。

 そのため、

 「自分は役立たずである。では、役立たずの自分をどうしたら変えられるか?」

という視点を意識的に取り入れないことには、どうにもなりません。無論、そのために必要なのは、特殊なルートでも特別な方法でも何でもなく、誰もが大人へと成長するまでに行う普通の努力と普通の経験です。やることは何も変わらないのです。

 にもかかわらず、

「先に行った同期の奴らの後を追うなんてみっともないこと、今更したくない」

という幼稚な発言を30代の当事者の口から聴くことがしばしばありますが、彼らの今があるのは、この「幼稚さ」故であることは誰の目にも明らかです。積み重ねを放棄し、都合の良い方法論だけを模索する彼らの先に暗澹しかないとしても、それは仕方の無いことです。彼らは、知らず知らずのうちに、積極的に自滅を選んでいるのですから。


「特殊」を追い求めて自滅する滑稽な引きこもり当事者達を尻目に、「普通」の努力を毎日継続する元当事者達。引きこもりの現場でも、上昇する人達と下降する人達との違いは実にすっきりとしたものです。CARPE・FIDEMは、平たく言えばこの努力を貯金する「貯金箱」のような存在ですが、一定期間の貯金を経て貯金箱を割るとき、彼らが「金持ち」ならぬ「成果持ち」となっていたとしても何ら不思議なことは無いでしょう。

 当たり前の現実が当たり前の配分で。色々ありつつも、今の日本は案外良い社会なのかも知れません。
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2012年06月17日

引きこもりは深刻化しているか?

 たまにですが、

「引きこもりの高齢化が深刻なレベルに! 今すぐ国の対策を!!」

などのような呼びかけを見ます。そのせいか、私も実際に引きこもりの高齢化について問われることがあるのですが、個人的には、この主張は半分位嘘だと思っています。というのも、引きこもり高齢化の主張をするのは、決まって高齢引きこもり当事者や高齢化した子供を抱える親達、そしてその支援者達、つまり、そう叫ぶことで自分達が利益を手にすることの出来る人達ばかりだからです。

 実際に見てみると分かりますが、高齢引きこもりの大半は「自分の力では何も出来ない人」、平たく言えば、社会的生産活動を行う力を持たない人達です。彼らの姿があるせいか、「一度引きこもりに陥ると人生終了」のようなイメージが付き纏いますが、実情はもっと流動的で、引きこもっても案外道はあるものです。別段、その場ですぐに人生終了となるわけではありません。

 寧ろ、現実には一度引きこもっても何らかの回避策を講じる方が一般的で、最低限の判断力がある人なら特に問題も無く社会に戻ってしまいます。引きこもり経験のある社会人など、今はそれ程珍しいものでもありません。どこの会社にも、少数ながら確実に存在するでしょう。

 それを逆に見れば、現状の「高齢引きこもりへの対策を!」という主張は、高齢になるまでまともな対策を講じてこなかった「無策層」がパニックに陥ってるだけのこととも言えます。本音を言えば、30過ぎの高齢引きこもりで、はっきりと社会の中で有能と認識されるような人はほとんど存在していません。有能な人はそこまで長期間引きこもりませんから、有能でない判断力の乏しい群が最後の最後まで残っているだけのことです。因みに、これは学歴がどうとかの問題ではありません。単に社会で役に立つかどうかの話です。

 「高齢引きこもりの救済」などと言うと、いかにも慈善的な響きを持ちますが、実際は自分の人生に責任を取ってこなかった一群が、自己利益の追求と保身に走っているだけの見苦しいものです。第一、本当に社会への慈善意識がある人は、自らが社会の厄介者になる前に社会に出ています。厄介者にならないことが社会への最大の慈善であるにもかかわらず、厄介者になりながら「慈善慈善!」などと主張するのは、親に寄生しながら「もっと金出せ!」と主張するのと全く同じことです。

「寄生していた親が死にそうなので、今度は社会に寄生出来るようにしよう」

 引きこもり支援体制の拡充のために、国や地方自治体を動かそうとする彼らの主張には、寄生対象を親から国に変えようとする安直な浅ましさが見え隠れします。しかも場合によっては、この手の主張を引きこもり当事者の親達がしていたりするのですから、呆れてものも言えません。いくら、子供が自分に寄生してきたからと言って、子供の寄生癖を親までマネする必要はないでしょう。知らず知らずのうちに、家族全体が寄生癖に塗れてしまっているのです。

 個人的に懸念しているのは、彼ら「無策層」がもっともらしい「慈善」を掲げて自らの社会保障を主張するために、早い段階から頑張ってきた人達がわざわざ経済的負担をしなくてはならない点です。努力して成功した人達の背におぶさって「弱者救済! 弱者救済!」と叫ぶ当事者の意見を聞くたびに、心底嫌な気分になるのは私だけではないと思います。

 高齢の引きこもり当事者には、自分達の身のことばかりを考え、やれ「今からでも安定した生活を!」だの「弱者のための社会支援を!」だのと、社会主義的発想を振り回す人がかなりいるのですが、そんなものは、社会に対して相応の益をもたらしてきた人々にのみ認められるものです。保険料を支払わない人に、保険金が下りるはずありません。自身のあり方を変えようとしない「弱者のままでい続ける弱者」の社会主義的発想の下には、早いうちから努力と自己研鑽を怠けなかった「強者になるべく努力した弱者」の資本主義的発想があることを忘れないで欲しいと思います。社会的に何の力も無い「弱者」を守っているのは、間違いなく「強者」なのですから。

 CARPE・FIDEMも、「不登校や引きこもり当事者への教育支援」と看板を出していますから、よく慈善的、社会主義的な組織と勘違いされますが、実際は全く正反対で、完全に実力本位の資本主義的発想で運営されていますし、その発想に賛同する人々が集まってきます。CARPE・FIDEMは、「強者たろうと努力する逞しい弱者」のための組織なのであって、「弱者のままでい続けようとする卑しい弱者」のための組織ではありません。そんな弱者は、これからの時代には全く必要無いのです。

 未来の強者達が、未来のあり方を考えながら勉強し、共に笑って歩んでいける環境。CARPE・FIDEMとは、そういう哲学を持った組織です。

posted by Ecodog at 01:25| Comment(0) | 脱ヒキの要点(当事者編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月13日

30過ぎ引きこもりの現状について

「引きこもったまま30歳を過ぎるとどうなるのですか?」

という質問がいくつか来ていましたので、これについても軽くまとめておきましょう。

 結論から言うと、

「死ぬことは無いが、上昇出来ない」

というのが現実です。つまり、

「死ぬ気で探せば、アルバイトなり何なりでギリギリ食いつなぐことは可能。しかし、その生活から這い上がることは出来ない」

ということです。

 今は、引きこもりや不登校にも格差というものがありまして、この格差は、大体20代(現実的には20代半ば)のうちにほぼ完全に確定します。先見性のある当事者は、勉強するなり対人関係の訓練をするなりで、いつか迎える、所謂「脱ヒキ」「脱不登校」のための準備をしていますが、何も考えていない当事者は、貴重な10〜20代の期間中、本当に何もしていません。当然、格差も倍々に広がります。

 CARPE・FIDEMは、昔からこの「格差上位」の人達が集まることが多かった関係で、社会一般に言われる「格差下位」の当事者と、「格差上位」の人達の両方と話す機会が複数回あったのですが、状況を見る限り、この差は、どう逆立ちしても埋まるものではないと見ています。

 彼らの違いについて言うと、「格差上位」は、

○自分に対して、良い意味でプライドが高い
○そのプライドを生かすための努力を怠らない
○将来に対する青写真を描いている
○考え方が現実的

などの傾向があり、「格差下位」には、

○どうでも良いところでプライドが高い
○プライドだけは豊富だが、努力はしない
○近視眼的である
○考え方が幻想的

などの傾向があり、両者の間には、対照的特徴が複数見受けられます。

 中には、

「金が無いから何も出来なくて、ここまで落ちてしまって……」

のように「経済的格差」を主張する人達もいますが、これはどう見ても詭弁です。お金が無くとも、能力的に群を抜いている「格差上位」の当事者は昔から珍しくもありませんし、寧ろ「背水の陣」であるが故に、彼らの方が、経済的に余裕のある富裕層よりも高い成果を上げることが多いです。本当に優れた人は、言い訳がましいことは一言も言わず、日々淡々と努力しているものです。(個人的には、「経済的格差」よりも、「能力的格差」の方が数倍大きいと感じていますが、これについては話すと長くなるので、またの機会にしましょう。)

 30歳を過ぎると、余程の工夫をしない限り、「格差下位」はほぼ確実に固定化します。

「下位でも何でも構わない」

という人は、それでも特に問題無いでしょう。ただ、

「労働時間だけが長く、賃金は極めて低い」
「危険性の高い現場仕事」
「あらゆる保障が無い」
「将来性も無い」

のような生活が嫌だと感じたら、20代のうちに、最低限の努力はしておいた方が良いでしょう。こちらで見ている限り、固定化した「格差下位」というものには、好意的要素がほとんどありませんから。
posted by Ecodog at 06:00| Comment(0) | 脱ヒキの要点(当事者編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする