2011年11月20日

親和性のある人々?

 何事にも、合う合わないというものがありますが、ここCARPE・FIDEMについてもそれは言えます。元々、少し変わった組織なので、若干変わった人が集まりやすい気がしますが、最近になって、「どんな感じの人が来てるの?」というお話が複数ありましたため、CARPE・FIDEMと親和性のある人々について紹介してみようと思います。


1:自立意志が強く、先々のことを考えて行動する人

 まずは何をもってしてもコレ。精神的、経済的自立を現実的に考えている人です。昔からそうですが、親への寄生を良しとするような人は、ここには来ません。何故なら、CARPE・FIDEMはそれと正反対のことをしているからです。無論、今すぐに自立出来るわけでもありませんし、最初はその力もありませんが、自立に至るまでの軌跡を自分で描き、長期的スパンで物事を考えられる人は、淡々と目標に近付き、最後にはそれを達成します。


2:基礎教養面において、良い意味でプライドの高い人

 不登校や引きこもりからの進学と言うと、基礎学力の低い大学がすぐに挙げられますが、そういった大学を希望する人はまず来ません。卒業しても、何の意味も無いからです。ここの参加者が、卒後の経済的自立に繋がるそれなりの大学へと進学するのは、1で挙げた「自立」という単語と密接に関係しています。


3:時代感覚のある人

 今という時代では、「自分はコレが出来ます!」とはっきり主張出来る人、そして、その具体的「力」を持った人が生き残る一方で、何も出来ない人、指示待ち人間は不要とされます。そのことが分かっている参加者は、積極的に表に出て、自分が出来ることを増やすように努力しますが、これは、何もせずに漫然と家にいるだけで、「社会が悪い、時代が悪い」と呪詛を吐くだけの当事者との大きな違いです。


4:最終的には、社会的強者たらんことを望む人

 ここまで言うと言い過ぎかも知れませんが、少なくとも、「自分は可哀想な人なんだ。苦しいんだ。助けてよ助けてよ……」のように、周囲の人からの同情を誘い、情けをかけて貰うことばかり考える類の、発想の卑しい人はここには来ません。今、どれほど弱い立場にあっても、10年後の強者たらんと虎視眈々と狙っている人にこそ、ここは相応しいと言えます。


 上記4つの項目を見て、大筋同じ考えの人なら、今がどれほど落ちぶれた状態だとしても、CARPE・FIDEMは大きな可能性を提示出来るでしょう。逆に、いつまでも弱者のままでいて、社会や親に寄生して周囲の足を引っ張り続けることに疑問を感じない人には、ここはどうにも無意味な場所でしょう。結局のところ、「類は友を呼ぶ」ということです。

「今の弱い姿ではなく、明日の強い姿を見る」

これが、CARPE・FIDEMのモットーです。


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2011年06月20日

卒業生の言葉

 最近、過去に自分が担当した卒業生からちょくちょく連絡が来ます。一応、皆元気そうで何より。中には極めて真面目な子もおりまして、

「自分、受験のときに英語が得意だったので、一年目でも会話は無理なくこなせるようにしたいんですよね」

のように好戦的。江東区と千代田区を往復するだけの生活に閉じ込められている私と比較して、何とインターナショナルなことでしょうか。大変結構!

 しかし、彼らを見ていて感じるのは、何と言っても、「生き方は自分自身で決めるものである」という当然の事実であり、また、「人の行先を決めているのは、詰まる所、当人の判断力である」という当たり前の事実です。

 判断力がある人は、実行する方向性一つ一つが現実的で、進む先の選択もミスが少なく、自然と成果が出やすい。一方で、判断力の無い人は、常時不確定性の高いものに依存し、気が付いたときには何も出来なくなってしまっている。

 特に、引きこもりを延ばしに延ばして、進むに進めず、退くに退けなくなった人達との対比が際立ってきているせいか、別段特殊なことをしている訳でもない彼らの生き方が、一際輝いて見えます。

 先週も、昔の卒業生複数から、

「結局はさ、親のせいとか社会のせいとか言ってるヒキってのは、自分の無能力の言い訳をしたいだけなんだよな」

みたいな話を聞かされましたが、引きこもりや不登校から抜けて、そこそこの立ち位置についた人は、皆このような意見を持つようです。

「人生は選択の連続であり、その選択の結果が今の自分を作り上げている。今の自分に納得がいかないのは、自分の判断力に致命的問題があるからだ。だからこそ、今の自分は自分自身の考え方を修正する必要がある」

 よしんば一度転んだにしても、そこから再び立ち上がり、立派に自らの責務を果たした人々にこそ、笑顔はふさわしい。他人のせいにすることなく、自分のやるべき当たり前のことを着実に積み上げた人々が、これからの新しい社会を作り上げていくのでしょう。CARPE・FIDEMから笑顔で出つつあるのは、私としても大変喜ばしいことなのです。
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2010年04月26日

第7回「賢い人々は『政治批判も社会批判も、結局は惨めな自分を誤魔化そう、という貧しい意識の現われに過ぎない』と考えている(2)」

 これまでに私が担当してきた当事者の方の中で、特に本質を言い当てた人達の言葉をまとめた「引きこもり語録」なるものがあるのですが、この中の一つに、

「他人に殺意が沸くのは、自分が惨めだからだ」

というものがありました。似たようなフレーズを残した人は数名いて、皆既に社会の中で普通に生活をしていますが、ここで紹介する彼もまた、引きこもっていた当時は社会批判、政治批判が大好きな青年でした。「○○(人名)は許せない!」「××(会社名)は労働者を搾取している!」「△△(政党名)は狂っている!」このような言葉が彼の日常を支配し、その程度は通常の人々から見ればある種の異常性をも感じさせるものでした。

 しかし、しばらくすると段階的にそのような批判が鳴りを潜めるようになってゆき、仕舞いには何も言わなくなってしまいました。後になってから私がそのことについて尋ねてみると、彼はこのように言いました。

「なんで自分が社会批判をしていたのか理解出来ましたので……。恥ずかしくなって止めました。結局、昔の自分が社会を批判していたのは、単に自分が怒りたかったからです。社会がいかにマトモであっても、怒りをぶちまける相手が欲しかった。ただそれだけなのだと。

 だから怒りをぶちまけやすい相手を選んだのだと思います。政治家に対しては、皆が何がしかの怒りを持っているから怒りをぶちこみやすい。大企業もその巨大さ故に叩きやすい。頻繁にテレビに出る著名人も同じです。自分が殴りたいから殴った。

 自分が感じていた訳の分からない殺意も、結局は根っこは同じなんだったと思います。他人に殺意が沸くのは、自分が惨めだからなんですよ」

 彼のこの話は引きこもりの問題だけでなく、ある意味人間の本質をついている部分もあるのではないかと思うことがあります。「惨めだから誰かを蹴落として楽になりたい」という、上下関係による安定性を欲する動物的反応が、そこにはあるのでしょう。


 実のところ、引きこもり当事者からほとばしる社会批判には、多くの場合この種の悪臭が付きまとうことが非常に多いです。「□□は許せない!」と叫ぶ彼らの目には、いかにも「自分は正しいことをしている!」という正義の炎が見えるようですが、その下に見える熱源は、結局単に「怒りをぶちまけても誰も文句を言わない敵が欲しい」という敵愾心と、「誰かを蹴落として自分の精神を安定化させたい」という意識だけのように見えます。

 その証に、ある程度まともな形で社会参画が可能となった当事者は、段階的に社会批判を停止し、自分の過去の意識を反省する一方、それに失敗した当事者はその悪臭をどんどん加速させ、抽象的「社会」への怒りをますます強めていきます。

 既に社会批判を止めることの出来ない人々は大勢いますが、これは既に彼らの状況がのっぴきならない、即ち、まともな社会参画なんか出来ないレベルにまで到達していることを意味しています。私も相談に来られる親御さんに、よく「社会批判に異常性が出てきたら既に危険領域ですよ」とお話していますが、これも過去の事例が端的に証明してくれているのかも知れません。


 それにしても、自分を省みず、自らすべきことを怠け、そのツケを社会に払わせようという見苦しい当事者がいる一方で、先の言葉を残した彼が自分の過去を素直に修正する気になったのは、実に素晴らしいことではないでしょうか。彼が自らの姿勢を改める気になったのは、彼の未来が閉塞的なものではなく、何らかの可能性が出てきたことが主な理由です。自らが進む先がきちんと存在し、その先に自分の求める像がある。その事実があるだけで、彼は不毛で無意味な社会批判を止め、その社会のために自分の力を発揮する道を選ぶことが出来たのです。

「もう自分が社会を批判する理由は無いんですよ。やらなくてはならないことがウンザリする程ありますからね(笑)」

 自らの人生に責任を持った人々が無意味に批判をぶちまけることはありません。批判とは、批判の先により良い可能性があるときのみ有効なのであり、具体化可能な建設的意見を伴わない批判は全く無意味なものです。そして、具体化可能な建設的意見とは、社会の中で責任を持って初めて持てるものであり、責任を負わない人々にとっては完全に無縁なものです。

 責任を取る道を選んだ彼が行うこれからの「批判」は、きっと舌鋒鋭く、それでいて人々を納得させるものとなるでしょう。そのような「批判」こそ、これからの時代に求められるものなのではないでしょうか。一見すると見下されがちな引きこもり当事者の中にも、彼のような優れた人々がいることは、私にとっても大いに誇らしいことなのです。
posted by Ecodog at 18:47| Comment(0) | 脱ヒキの要点(当事者編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする